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HOME雅な伝統文化 >通過儀礼シリーズ3(七五三)

3、七・五・三ついて

 

小さいお子様であっても、三歳・五歳・七歳と正しい通過儀礼の意味を教えてあげてお詣り、お祝いをしてあげれば、ご両親の深い愛情は必ずお子様の心に残ることでしょう。
最近の新聞、テレビのニュースでは本当に悲しい事件ばかりが報じられており、世の中はどうなっているのかと不安で一杯です。こんな時代だからこそ伝統文化を大切にして、親子の絆、親子愛を深めて健やかで心豊かな優しいお子様に育てて差し上げて下さい。
そんな思いで七五三について書かせて頂きました。

学院長 大久保 次江

 

 

三歳『髪置の儀』

平安時代に皇族、貴族社会で始まりました。産まれて七日目頃に男女共、髪の毛を剃って丸坊主にし、三才の春から髪をのばし始めました。
平安時代、女性は夫に先立たれたり仏門に入る以外は、生涯髪の毛は切らずにのばし続け、男性もおまげを結っておりましたから、肩の長さくらいまでは仏門に入るまではのばしていたのです。
室町時代になり、公家二歳、武家三歳で行なうようになり、江戸時代には広く庶民の間でも行なうようになりました。

髪を伸ばし始めた「髪置の儀」については平安文学には細かな記載はないのですが、生まれて七日目頃に初めて髪の毛を剃る「産剃り」については沢山書かれていますのであわせてご紹介致します。

「源氏物語」第19帖[薄雲]から

光源氏の娘で明石の君がお産みになった明石の姫君が、三才から髪の毛をのばし始められたことがわかる記述です。
明石の姫君は大層可愛らしく、この春からのばし始めた御髪(おぐし)がゆらゆらと美しく、まるで尼の肩あたりで髪を切りそろえられたように…と書かれています。

(原文)
「いとうつくしげにて…この春より生ほす御髪、尼そぎのほどにて、ゆらゆらとめでたく…」

「源氏物語」第37帖[横笛]から

女三宮がお産みになった若君(薫)が乳母の側でハイハイされている様子が書かれています。
源氏の君にまとわりついて甘えておいでです。
三歳まで丸坊主にしていた薫の君の剃った頭の様子がまるで露草で特別に染めたように青々としていると書かれています。

(原文)
「若宮は乳母のもとに寝たまへける。起きて這い出たまひて御袖をひきまつわれたてまつりたまうさま…頭は露草にして、ことさらに色どりたらむここちして…」

(ここでも源氏の君は若君をご覧になって、目元も口元も亡き柏木にそっくりだと悲しくあわれに想われます…。)

「栄華物語」巻第八[はつはな]より

66代、一条天皇の第二皇子、敦成(アツヒラ)親王(後の68代後一条天皇)の産剃りの様子。
一条天皇の中宮彰子は里邸(藤原道長邸)で出産され、産剃りも道長邸で行なわれていますが、敦成親王は1008年9月11日のお誕生ですから、生後七日目くらいは9月17日前後ですが、産剃りは10月16日に執り行なっています。
それは、一条天皇の行幸(若宮をご覧になる為に帝が道長邸においでになります。)が10月16日と定まっておりましたから、おそらく帝が若宮をご覧になる時に御髪があるほうが可愛らしいから、産剃りを一ヶ月くらい延ばして帝の行幸の日に執り行ったのではないかと国文学者の先生方はおっしゃっています。
この日は帝の行幸の後に産剃りの儀式をされましたので、道長邸はきらびやかに飾り付けられそれはそれは大層ご立派な様子が記述されています。

(原文)
「その日ぞ若宮の御髪はじめてそぎたてまつらせたまふ。ことさらに行幸の後としてあるなりけり。やがてその日…日ごろしつらひのらうがはしくさま異なりつるを押し返しうるはしうかかやかしたまふ…」

「栄華物語」巻第十一[つぼみ花]より

第67代三条天皇の皇女、禎子内親王を道長の次女の姫君、妍子が出産されます。
例によってそれはそれは立派な御産養いをされ、本来であれば産まれて7日目くらいのその御産養いの儀式と同じ日に御産剃りも行なわれているのですが、産剃りはなさいませんでした。それは、禎子内親王は大層お可愛らしく、生まれながらにして珍しく御髪が驚くばかりに長く美しいので(現実ではありえないことではございますが。(笑))御乳母も皆々様もあまりに可愛らしいので産剃りはなさらないこととお決めになったようです。
生後五十日の五十日の御祝いに三条帝も道長邸に行幸がありますから、可愛らしくお美しいお姿をお見せ申し上げようと産剃りは中止されたとの記述があります。

(原文)
「若宮(禎子内親王)の御髪( みぐし)あさましく長く、振分け生(お)ひされたまへり。やがてかくておほしきこえさせんと定めあり。なにごともいとめでたし。いみじううつくしげにおはします…」

そして五十日のお祝いを迎えられ三条帝が行幸され、道長が帝の御前で姫君をお抱きになって帝がご覧になり、「なんと可愛い姫君であられる!こんなにたくさんの髪であられると来年にはきっともう身丈くらいにはおなりであろう。」と驚かれた様子の記述もあります。

五歳『御袴着』(着袴の儀)

平安時代の皇族、貴族達は男女ともに袴を着けていました。
男子は束帯、衣冠、布袴(ほうこ)、直衣、小直衣、狩衣等、女子は十二単(正しくは唐衣裳姿、女房装束)、袿姿、小袿姿、汗衫(かざみ)、細長等、すべてが袴を着ける装束でした。
初めて袴を着けるこの儀式は、男女共に三歳から七歳で行なっていましたが、三歳(実年齢二歳) で行なうことが多かったようです。平安時代はこの儀式を三日間執り行ないました。
江戸時代頃からは、装束の変化と共に男子のみの儀式となり、五歳で行なうようになりました。子供を碁盤の上に乗せて執り行なわれます。
現代の皇室の皇太子様(浩宮徳仁親王)、秋篠宮様(礼宮文仁親王)、紀宮清子内親王様(数えの五歳で)におかれましても、古式ゆかしい儀式の様子がテレビでも放映されていましたので、記憶におありの方もいらっしゃると存じます。

「源氏物語」第一帖[桐壺]

主人公、光源氏の君(若宮)が三才におなりになられた年(満二歳)に御袴着が行なわれた様子。
桐壺帝には弘徴殿の女御(時の右大臣の姫君)がお産みになった先の一の宮(東宮)がおいでになりますが、この一の宮の御袴着に劣らず大層ご立派に源氏の若君の儀式が行なわれたと書かれています。

(原文)
「この御子三つになりたまふ年、御袴着のこと、一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くしていみじうせさせたまふ。」

「源氏物語」第十九帖[薄雲]

光源氏の姫君(明石の姫君)が三歳の髪置に続いて、御袴着を行なわれた時の様子。
二条の院で姫君の御袴着は行なわれました。
それほど大げさにはなさいませんが、お部屋の調度もお支度もそれは可愛らしく、まるでお雛遊びの様で素晴らしいお支度でした。
姫君が胸元でお結びになった袴の紐が大層可愛らしく見えたと書かれています。

(原文)
「御袴着は何ばかりかわざとおぼしいそぐことはなけれど、けしきことなり。御しつらひ雛遊びのここちしてをかしゆ見う…ただ姫君の襷(たすき)引き結ひたまへる胸つきぞ、うつくしげさ添ひて見たまへる。」

「栄華物語」巻第二[花山たづぬる中納言]

産養いでもご紹介致しました、第64代円融天皇の第一皇子、懐仁親王(後の第66代一条天皇)の御袴着の様子。

若宮はお可愛らしくおなりで今年は三歳になられたので、秋頃には御袴着の儀式を行うべく帝は、御調度類の調達をお命じになり、そのためのお支度をご用意あそばします。
本来なら里方の東三条院で行なうのが常でしたが、帝のご希望で宮中で執り行なわれました。
大変ご立派な儀式の様子が記述されています。

(原文)
「若宮のおうつくしうおはしますらん、今年は三つにならせたまへば秋つ方、御袴着の事あるべう内には造物所に御具どもささせたまひ、その事ども思しまうけさせたまふべし…内には若宮の御袴着の事、御心のかぎり思しめしいそがせたまふもさすがなり…東三条院にてあるべう思し掟てさせたまう内は「などてか内裏にてこそは」と思いしのたまはせて…その日に参らせたまひてそのほどの儀式、有様思ひやるべし。」

「栄華物語」巻第十二[たまのむらぎく]

藤原道長の次女の姫君の妍子は、67代三条天皇に入内され、皇女禎子内親王を出産されました。
宮中ではお正月も過ぎ、今年は禎子内親王が御年三歳におなりで四月には御袴着が執り行なわれるのでその準備でおおわらわです。四月の上旬に御袴着が行なわれ、大殿(道長)も大層ご熱心にお支度されましたが、帝もまた万事遺漏なきようにとおぼしめされてそれはそれはご立派に善美を尽くしておあげになりました。
三日間万事、まことに慶賀な有様でした。

(原文)
「月日過ぎて年も返りぬ。…今年は姫君の御年三つにならせたまえば、四月に御袴着の事あるべし…内裏には四月朔日(ついたち)姫君の御袴着なり。大殿もいみじく御心に入れていそがせたまうに、内はた何こともと思しめして、えもいはずめでたくて奉りつ。三日のほどよろづいとめでたし…」

七歳『帯直しの儀』(帯解、紐落としの儀)

鎌倉時代の末期から室町時代にかけて始まった儀式のようです。男女共に子供のきものには付け紐(きものに縫い付けてある紐)がありましたが、これを取り外して帯を結ぶようになる(今のような帯ではなく細幅のもの)儀式をこのように呼ぶようになりました。子供から大人の衣服に変えたのです。
室町時代には男女共に三歳位で行っていましたが、江戸時代になって、男子五歳、女子七歳で行われるようになり、武家にも庶民にも広まりました。江戸時代後期頃にになって女子のみの儀式になったようです。(女子の帯幅は江戸時代の後期に今のような広い幅になりました。)

この儀式は平安時代にはございません。詳しい文献はございませんので、帯の歴史について少し説明します。
古く古墳時代は、男女共8センチ位の幅の物を一重に巻いて前で結び、垂らしていました。これを倭文帯(しずはた)又は倭文布の帯(しづりのおび)と呼んでいました。
大宝元年(701年)に制定され、養老二年(718年)に改定された衣服令では、 男子文官の礼服(らいふく)で表の衣に條帯(くみおび)又は綬(じゅ)を上腰あたりで巻いて前で結び両端を垂らしていました。
女子女官の礼服も表の衣に上腰正面で結び、両端は前で垂らしていました。これを紕帯(そえおび)と呼んでいます。
しかし平安時代には、男子は束帯(第一礼装)姿には表の衣を石帯と(せきたい)という革に石がはめ込んである帯で束ねていましたが、これは帯の本来の用途ではないように思います。
女子は俗にいう十二単(唐衣裳姿)で帯らしい物は結んだり用いたりはしていません。
帯が再び現れるようになったのは鎌倉時代から室町時代にかけてで、それまではきものを留める紐のような役割であったものが、だんだん表に出てきて装飾的、機能的な役割を果たすようになったと江馬務先生(京都大学国史科卒、有職故実研究家)はおっしゃっていますので、おそらく帯直しの儀は鎌倉時代から室町時代にかけて始まったと考えられます。
江戸時代には必ず行なっていた儀式で文献には詳しく記述されています。

これらの儀式は、平安時代から吉日を選んで別々に行っていましたが、江戸時代(五代将軍の頃といわれています。)から、陰陽道の説では十一月十五日が年中で最上吉日とされているこということで、十一月十五日に定まり、七五三として、その日にまとめて行うようになりました。

 

七五三は、このように昔から、それぞれ意味のある儀式だったんですね。

平安時代は、男の子も女の子も産まれて七日目から三歳まで、坊主頭だったなんてちょっと可哀想で、笑ってしまうのは私だけでしょうか?
でも幼い頃にそうして髪を剃ることによって、黒々とした丈夫な美しい髪が生えてくるようにとの願いだったのでしょう。
私も小さい頃は「体が成長する間は、あんまり髪の毛をのばしたらあかん。栄養がそっちにいってしまうから。」なんて言われていたのを思い出しました。(笑)
三歳の「髪置の儀」はつるつるの坊主頭を終えて、髪をのばし始めるんですからとても大きな変化。成長の節目ですね。
現在でも男女共がお祝いします。
女の子は、まだまだ幼いですから三歳はやはり帯を結ぶより被布の方が着やすくてお勧めです。
男の子は紋付袴です。
三歳のお詣りには、三つ身か四つ身のきものとなります。
三つ身がこの頃の子供にはベストサイズでしょうが、後にまで着るきものとするのは難しくなります。かといって四つ身のきものでは可哀想なこともあるかもしれません。
また、お宮詣りの時の祝い着を縫い直して、三歳のお祝いのきものにすることも出来ます。
そのお子様に合わせて考えてあげて下さい。

五歳の「着袴の儀」は、今でも皇室では、碁盤の台の上に装束を着けたお子様をお乗せになる可愛らしい光景をみることができますね。
着袴の儀の直後に、三歳の髪置の儀からのばし始めた髪を綺麗に切りそろえる「深曽木(ふかそぎ)の儀」も同時に行なわれているそうです。
大人と同じ装束をここで初めて着けるのですから、親や祖父母はもちろん、本人にも大人に近づいた自覚がしっかりと芽生える儀式ですね。
袴を履くのが男子だけになって以来、五歳は男の子だけがお詣りするようになったようです。

七歳の「帯直しの儀」は、「帯解の儀」と言われることの方が多いようですが、意味から考えても「帯直し」の方が正しいようです。
女の子だけのお祝いです。
きものに付けていた紐を外して、帯をしはじめるお祝いですが、実際はまだまだ幼いお嬢ちゃんです。きものにも不慣れな現在ですから、きものに紐は付けておいてあげた方が本人もだいぶ楽で着崩れしにくいと思います。

どの儀式も今の私達の生活には結びつかないことではありますが、古くから子供の成長を喜ぶ大きな節目であったことだけは確かです。
そしてその心はこれからもずっと続いていく、変わらぬ思いでもあります。

少し前までは、七五三の時には皆さんにお祝いを頂き、氏神様にお詣りして、千歳飴やお赤飯などのお祝い返しを持ってご挨拶にまわったそうですが、現在では家族や祖父母とでお詣りして会食を楽しむ温かい儀礼になっていますね。
日も11月15日にこだわらず、前後の都合のよい日取りでされるようです。
また、古来より数え年で行なっていたものですが、現在は満年齢で行なうことが多いようです。
それからきものの場合、衣裳は肩、腰(おはしょり)で揚げをして着せる物です。(子供である象徴のようなもので、可愛らしさを表現することでもあります。)こういうことをお母さんがしてあげられたら素敵だなとも思います。

記憶にはありませんが、三歳の私はお宮詣りの祝い着を縫い直してもらったものを着せてもらって家の中で嬉しそうにおしゃまなポーズをとって写真に写っています。
でも、着たことのない華やかな振袖に帯、神社での祈祷など初めての体験だらけでついに神社でパニックを起こして大騒ぎだったそうです。神社では泣き叫んでいる写真しかありません。(笑)
七歳の時は、私が着たものを三歳の妹が着て、私はビロードの赤いワンピースで仲良くお詣りしました。
妹は髪の毛がなかなかのびなかったので、三歳のこの時も振袖には不釣り合いな、いがぐり頭。剃っていたわけでもないのに、まさに髪置の儀といった感じでした。(笑)

そんな思い出や、記憶にはなくても残っている写真達やきものは、大人になった今もずっと私達が愛されて大切に育てられたことを私に知らせてくれる宝物です。

何を着なければいけないというような決まりもありませんし、しなければいけないと無理をすることはないと思います。ただ、そういう儀礼を経ることで親やおじいちゃんおばあちゃんの子供への思いを形にする素敵で大切な機会になっているのではないかと思います。

りえ

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