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源氏物語千年紀特集

・源氏物語千年紀とは
・紫式部とその生涯
・リンク

2008年は、源氏物語千年紀です。
日本中で思いがけない盛り上がりを見せ、源氏物語という歴史的文化遺産の大きな価値をあらためて感じ入っています。
そして源氏物語装束を研究されてる大久保先生の元において、この千年という記念すべき年に生きていることに感謝するこの頃です。

さて?どうして2008年が千年紀なんでしょう?
どうして源氏物語が特別なものなんでしょう?
皆様のそんな疑問に大久保学院長がお答え致します。
読んだことのない人も、きっと読んでみたくなる「源氏物語千年紀特集」です。
(以下大久保学院長記)

<源氏物語千年紀とは>

今から1000年前、王朝文化が最も華やかな平安時代11世紀の初頭、紫式部が宮廷、貴族社会を題材にして日本最古の大ロマン長編小説「源氏物語」を書きました。
男女の愛を通して、夫婦、親子、兄弟、姉妹などあらゆる人間関係における人間模様が描かれ、喜びや悲しみ、苦しみ、そして社会、経済、文化、文学など様々を織り込みつつ、歴史都市京都の美しい魅力を表現しています。日本国内はもとより、世界中の人々に絶賛されている世界に誇れる文学です。

執筆が始められた時期、執筆が終わった時期については諸説さまざまで、国文学博士の先生方によりますと1001年頃から書き始めて1010年頃までには執筆が終わっていたようだとされておりますが、定かではありません。紫式部が、寛弘5年(1008年)7月16日の彰子(一条天皇の中宮)がお産の為道長邸にお里下がりをされた日から、寛弘7年(1010年)1月15日の敦良親王の五十日の祝いの日まで執筆した「紫式部日記」の中の1008年11月1日の巻に、源氏物語のことが書かれてありますので、その記述から2008年を源氏物語1000年紀に定めたようです。

源氏物語を初めてヨーロッパに紹介したのは、ロンドン駐在員書記生で日本の末松謙澄(ケンチョウ)で、完訳ではありませんが原文に忠実に英訳しました。明治15年(1882年)にロンドンで出版されました。これが基になって、ドイツ語、フランス語、ロシア語と訳され、1925年〜1933年にかけてアーサー・ウェリーが英訳しました。この時、ユネスコ本部から日本人で初めて紫式部が[世界の偉人]に登録・認定されました。源氏物語がいかに素晴らしい古典文学であるかの証明です。続いて1976年には、アメリカのサイデンステッカーが英訳の完訳をしました。
源氏物語は世界に誇れる文学なのです。

紫式部は源氏物語の中に恋愛を語っただけではありません。人の道、人の心、人間はどう生きていくべきなのかを説いているように思います。そして物語に描かれた京都の自然の四季の美しさ、四季折々の花々や草木になぞらえた貴族達の十二単などの素晴らしい装束や、源氏物語絵巻の華麗なる世界は、世界中の人々を魅了しています。
今、この悲しい出来事の多い情けない時代を、紫式部は天国で嘆き悲しんでいることでしょう。「日本人よ!文化、品格、人の道はいづこに!」と…。
日本人であり京都人の私達が、歴史都市京都が生んだこの源氏物語を通して、今再び、人の道や文化、品格について考えて欲しいと切に切に願う私です。

<紫式部とその生涯>

[紫式部の誕生]
紫式部は生年月日、実名も詳かではありませんが、平安王朝三大才女の一人で(他は清少納言、和泉式部)世界の文化史に燦然と輝く存在です。1925年(大正14年)に源氏物語はアーサー・ウェリーによって英訳されヨーロッパで絶賛されます。パリのユネスコ本部に日本人として初めて「世界の偉人」に認定されています。最近では研究が進んで、実名は「香子」、誕生は970年〜973年頃というのが有力な説とされています。

[家柄、邸宅]
紫式部は摂関家の家系で、曾祖父は堤中納言、藤原兼輔(877〜933年、醍醐天皇の御代の歌人)父は前官職が式部省の式部丞、藤原為時で長徳2年(996年)越前守(今の福井県知事)に任命され、それに紫式部も同行しています。

[結婚と出産、源氏物語の執筆]
紫式部は長徳5年(999年)正月、父の同僚(式部省時代)の藤原宣孝と結婚します。宣孝は47歳位、紫式部が27歳位でした。長保2年(1000年)に一人娘、賢子を出産しますが、翌年4月25日に宣孝が死去します。この頃から紫式部は源氏物語の執筆を始めたようです。

[宮仕え]
紫式部は藤原道長の命で一条天皇(66代)の中宮、彰子の女房として宮仕えを始めました。(1005年〜1006年頃と推定されています。)この頃すでに宮中では源氏物語が(「紫の物語」と呼ばれていました。)有名になり流行していました。一説には34帖の若菜まで位は執筆が終わっていたと言われています。寛弘6年(1009年)頃に物語は完成されたようです。

[紫式部日記と源氏物語1000年紀について]
紫式部日記は、寛弘5年(1008年)7月16日、中宮彰子が御産の為に土御門殿(道長邸)へのお里下がりをした日から起筆されています。
「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿の有様、いわむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ…」という、大変に風情、余情の込められた名文で始まります。
寛弘5年(1008年)11月1日の日記に一条天皇の親王、敦成親王(68代、後一条天皇)の誕生の一連の祝賀(五十日の祝い)の詳しい記述があり、その中に源氏物語に関する内容が描かれています。この事から文学者の諸先生方が2008年11月1日を「源氏物語千年紀」と定められた様です。

[紫式部の呼び名の由来]
平安時代の女性達は内親王、皇后以外は実名は詳かではありません。女房達は父や兄の官職名で呼ばれていたのです。紫式部も式部丞だった父の前官名で「藤式部」と呼ばれていました。しかし宮中で有名な「紫の物語(物語中の紫の上にちなんで)」の作者であったことから「紫式部」と呼ばれるようになったようです。

[紫式部の作品]
・「源氏物語」
・「紫式部日記」(女房時代の消息、回想日記)
・「紫式部集」(未婚時代からの30年間に詠んだ歌を、長和3年(1014年)自らが編集した歌集。120首が収められています。)

[没年とお墓]
没年は不明です。文学者の諸先生方の研究でも、長和3年(1014年)〜長元4年(1031年と説は様々です。年齢も最近では55歳〜60歳位で亡くなったとされています。
お墓は、京都市北区堀川北大路下ル西側、紫野雲林院の子院、白毫院に小野篁のお墓と並んであります。しかし、これも確信のできるものではないという学者の説もあります。

以上が私なりに長年に渉り沢山の文献、参考書等々でなど研究して参りました紫式部に関する記述です。伝説、謎、推定が多く実に頭の痛い作業でございましたが何とかまとめてみました。紫式部は、本当に厚いベールに包まれた女性です…。

源氏物語装束研究家 雅和装学院学院長 大久保 次江

<リンク>

・源氏物語千年紀委員会
・源氏大学.com
・風俗博物館〜よみがえる源氏物語の世界〜
・紫式部顕彰会

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This page last update : 08/03/10   ※個人使用目的以外には無断で使用しないで下さい。


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